台湾空軍の軍用機には、2種のナンバーが書き込まれるが、胴体の4桁の数字が”編號”と呼ばれるもの、 自衛隊で言えば機首のナンバー(modex)に相当し、機体の種類ごとに頭の番号が決まっている。F-5Eは、”5”から始まり生産第一号機は5101号機である。尾翼の数字は、”序號”と呼ばれ米軍のシリアルナンバーと同様 予算年数などに関連するが 桁数が5桁だったり6桁だったり 数字が略されたりするので分かりずらい。上の白黒写真”序號91718”の編號は、”5276”で F-5Eの176号機になる。
第4大隊
The Period of F-5E/F -2
F-104が引退した1990年代は、台湾空軍において主力戦闘機の空白期を迎えた非常に危険な時期であった。この時期に 第一線の戦闘機として実質の主力を担ったF-5Eのパイロットは、大陸中共政権で配備が進むSu-27・J-8・J-7の新型機に対し、劣勢ながらも対処しなければならなかった。それ故当時のパイロットの心理的プレッシャーは大きかったと言われている。
前頁で高速道路から時々基地を撮影していたことは記述したが、1981〜1983年当時どんな様子だったか、当時の写真をご覧いただきましょう。もう25年も前の写真であるので今公開しても問題ないと思うが、現在のシェルターの様子も当時とあまり変わらないのである。当時から迷彩を施したシェルター運用していた台湾空軍は中共空軍の脅威があった為常に臨戦態勢で、そうした意味では我航空自衛隊と比べても防空に対する備えは整っていたと言える。比較的簡単なコンクリートシェルターではあるが、1機づつ格納されており敵機からの爆撃の際、被害を最小に留める事は出来たであろう。
蒲鉾型コンクリートシェルターは、最新の強化コンクリートシェルターに比較すれば脆弱ではあるが、天井部分にも土盛がなされ周辺と同じ芝が植えつけられて偽装を施してある。偵察衛星や高空偵察では一目瞭然であるが、実際の爆撃部隊が低空で攻撃を行った場合は 角度によっては小山にしか見えない。周辺の農地は水田が多く視界がよい為、侵入者を発見しすい環境となっており農民との協力体制で不審者はすぐに基地に通報される仕組みが出来ていた。従って趣味で写真を撮りたい我々にとっても難儀な場所である。上の写真のシェルター内にはF-5が収納されているが空のシェルターが多いのはフライトで出て行っているか、中隊で馬祖方面に移動していたためと思われる。
Wings
CCK-FOX君の車に同乗し嘉義空軍基地周辺の農道を探索していた時、丁度降りてきたF-5EとF-5Fがランウェイエンドからシェルターの移動中の写真である。嘉義で撮影した唯一のタキシングシーンであるが、移動中の車両から衛兵に見られないように運転手の頭越しに撮った結果、撮影位置も低く車輪が草に被ってしまった。1994年当時、F-5Eは、F-16Aへの機種変更の準備でフライト自体が少なくなっていており、こうしたチャンスにめぐり合えただけで幸運だった。
ダートターゲットを運用し基地に帰ってきたF-5E。嘉義のF-5では時々見られた光景だった。機体は旧型黒鼻のものである。
新型シャークノーズ採用を装着した機体であるが、上の2枚の写真と序號の連番(5263,5264,5265)で並べて見た通り生産年月はほぼ同時期のもので、後になってノーズを新型に取り替えたもの。242機納品されたF-5Eの165番目の機体である。
翼下にマーベリックミサイルを搭載して離陸する4AGのF-5E。以前にも紹介したが 1990年代までは第4大隊(4AG)のF-5Eが唯一 マーベリックの運用能力を持っていた。4AGがF-16A/Bに改編して以降は、それらの機体は第8大隊(8AG)に移管された。所謂シーンマグタイプの運用で1機当たり最大4発の搭載が可能。
CCK-FOX君撮影のマーべリックを抱えて嘉義空軍基地に着陸するF-5E。最大4発まで搭載可能であるが、小型のF-5Eに4発を搭載した場合かなり重量的に負荷がかかる為、通常は2発搭載でのフライトが一般的であった。
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